Mein kleiner Regenbogen
翼が重いなら、脱ぎ捨てて飛べばいい。
秋、読書三昧期間28
2009年 11月 22日 (日) 16:14 | 編集
短いお話で本当は絵本的でもあるのですが、良質、という感じの本です。
課題図書とかになっていそう。

『満月の夜のさんぽ』フランシス・ハマーストロム・作 未知谷

作者の2人の子供、知りたがりで鼻が効く兄のアランと、木登りが好きで耳がよくきく妹のエルバがまだ小さかった頃の事。母は子供達にちょっと不思議な約束をします。
”これから1年の訪れる満月の夜に、外へ探検にでかけよう”と。
(満月は28日に1度巡る為、1年では12回ではなく13回満月が見られる、とのこと)
子供達は満月の中を散歩しながら次々に素晴らしいものを発見します。りんごを食べに来たシカ、都会に潜むフクロウ、木のてっぺんを食べたうさぎにふくろねずみの死骸。メープルの甘いつらら、沼の蛍、雪に潜むオコジョたち.........。

このお話の優れた所は、いろいろな観点から述べられると思います。
まず、母親が子供に自然を教えるそのやり方。けして勉強という形ではなく、ちょっとかわった”探検”という形なのですね。みんなが寝静まった夜という、アナザーワールドへ行くことが、子供の好奇心を刺激するのかもしれません。これが理科の授業だったらまず子供は行かない。寒いし!(?)
夜の森は、昼とは全く違う姿を見せます。でもそこにも確かに生命が息づいている。それは、昼間の光の中に見えなくても、確かに存在しているものがあるのだと言う事もできます。陽のもとに見えるものが全てじゃない。
また、このお母さんは、大都会の真っ只中でも、子供達を夜のさんぽに連れ出します。そこで彼らは、旧い教会のてっぺんに暮らすナヤフクロウの雛を発見するのですが、自然など見あたらなさそうな都会の中にも、生命が逞しく、人と共存しあうように暮らしているのだというメッセージも、この絵本に既に描かれていたのですね。

さらに素晴らしいと思うのは、やはり、”親と子の関係”です。
夜の散歩なんて、普通の親は反対するのでしょうが、一家のお父さんも、3人の散歩を温かく見守ります。都会の教会に行って3人がくもの巣だらけになって帰ってきた時も、お父さんは”瞳には星がきらきらかがやいている”と言います。この年だから、今だからこそ体験できる、豊かな経験を大切にしているのだなあと思いました。
自然知る、ということも大切なのですが、それと同じくらい大切なのは、家族がともに過ごす時間と空間、それを共有して得られる信頼感や、忘れられない思い出だと感じます。それが、きっと遠い未来に、豊かな感性の大人をつくるのかもしれません。そんな感じ。
秋、読書三昧期間27
2009年 11月 19日 (木) 22:57 | 編集
さらりと読んだお話ですが、わりかし面白かったです。

『ズンデヴィト岬へ』ベンノー・プルードラ・作 未知谷

八歳の男の子ティムは、燈台守の息子。浜で出会った男の子と仲良くなり、彼のいるキャンプの子供達とズンデヴィト岬への旅にいっしょに行く事を約束したのですが、待ち合わせの時間間際になって、ティムの前には次々障害のような用事が。工場長に忘れ物の眼鏡を届けると農業生産組合に届けるボルトを託され、さらには行きずりの老女にお茶を届ける用事を言い付かり、急いだ挙句に転倒して自転車がおじゃん。急がないと、せっかくできた友達に置いてきぼりにされてしまう。ティムは必死に急ぎますが............。

先にネタ晴らししてしまうと、ティムは間に合いません。けれども子供達は、それでもティムのことを待つ、という書置きを残していきました。その言葉に、ティムはわずかな希望を繋ぎます。遅れてしまったけれども、必ず追いつく、と。
文を読んでいる間中、読み手の私も作中のティムと同じように、待ち合わせに間に合うのか、ダメなのか、期待で舞い上がったり、あるいは落ち込んだりを繰り返しながらドキドキしていました。こういう切羽詰った時こそ、人は普段なら見落としがちな事にすら希望を見出せる.....というより、必死で希望を見出そうと努力するからこそ、希望が見えてくるようになるのだなあとも感じました。
また、そういうティムの必死さが、周りにも良い波として伝わってゆくのですね。時間の使い方を間違えているとか、要領が悪いと言われてしまったティムですが、結局彼が見捨てきれずに親切にした人々が、巡りめぐって彼を助け、彼の望みを人から人へ繋いでいってくれます。でもそれも最初は、ティム自身の能動的なアクションがあってこその話だと思いました。

訳者の後書きで、こんな良い事が書かれています。
「憧れは理想と希望を成分とし、勇気とねばり強さを養分に、繰り返し訪れる有頂天と絶望に鍛えられ、周囲の人々の励ましに支えられて成就する」物語はまさにこんな感じ。人生はジェットコースター。だけど諦めたらそこで試合終了です。自分の望みを口にし続けると、その望みは叶いやすい。なぜなら口にすることで周囲の人がそれを応援してくれたりするから。なんだかそんな自己啓発本に書いてある事を表していそうな感じでもあります。

以下、個人的好き部分↓
「希望がまったくないということは、一瞬たりともないのです。たとえその希望が、小さな火花よりもっと小さなものであるにしても。」

「それでも追いかけておいで!!!  ズンデヴィト岬へ」

それでも追いかけておいで、が実は一番感動しました。絶望の先に希望があるなんて。一番言いえていると思う。
秋、読書三昧期間26
2009年 11月 18日 (水) 22:59 | 編集
休憩がてら、ちょっとした作品を。こじんまりしているけれど秀作だと思います。

『静かな木』藤沢 周平・作 新潮社

3篇の短編集。
・岡安家の犬:若き侍甚之丞が主人公。腐れ縁の友人が、飼っている犬のアカを殺して犬鍋にしてしまった事から、甚之丞は友人金之助と仲たがいしてしまう。何とか決闘の事態は避けたものの、二人は微妙な空気。そんな折、甚之丞は人づてに、金之助がアカそっくりの犬を探していることをきくのだが.....。
男特有の、仲直りしようにもできない微妙な空気の間が面白いと思います。とはいえ、愛犬を殺された事を冗談にできるはずもなく、一方で金之助のこっけいな立ち回りも憎めない感じでした。ある意味、ここで仲直りできるのは、彼らが大人だからだと思う。子供で同じ事をやったら、多分死ぬまでわだかまりは消えなかったんじゃないかと思います。

・偉丈夫:大柄で寡黙だけれど実は小心者な侍権兵衛が、所属する藩のなかでおきた難しい揉め事の調停役(折衝役)を言い付かってしまう。あの口下手の権兵衛に、このピンチが乗り切れるのか?と事情を知っている人たちが気をもむ中、権兵衛はなんと、無事問題を解決してしまった。
口下手が必ずしも交渉下手とは限らない。人それぞれの切り込み方がある、と教えてくれた職場の上司の言葉を思い出しました。この場合、下手な工作や詭弁を使わずに、無骨なストレートパンチを食らわせた格好になった権兵衛が、結果として吉に転じたわけです。まあ、本人がそのことに気づいていない辺りがご愛嬌ですが。

・静かな木:老齢に達した侍の話。跡継ぎ息子が上司の息子と決闘騒ぎになったことに頭を悩ませる孫左衛門。しかもその上司とは、かつて自分に不祥事の尻拭いをさせて立身出世した男。しかし、息子にもしもの事があっては息子の婿入り先の家にも迷惑がかかると、孫左衛門は決死の行動にでる。
よくいますねーこういう嫌な上司、という典型例が出てきてある意味面白かったです。弱い立場にありながら、必死の行動にでた孫左衛門も、胸がすかっとする思いでした。と同時に、年をとっても苦労はたえない親心もじんわりと沁みる。老いて隠居のその身にも、できることはまだある。弱い立場でも逆転のチャンスがある。ケヤキとの対比もなかなか良いですね。人生はまだこれからだ。
秋、読書三昧期間25
2009年 11月 17日 (火) 23:12 | 編集
子供向けの軽い話と思いきや、すごく深いところもあって、ちょっと泣きそうにもなった話でした。カフェで読んでいて本当に泣いたら大変ですが。

『ベルおばさんが消えた朝』ルース・ホワイト・作 徳間書店

10月のある朝、ベルおばさんが失踪した。その半年後に、ベルおばさんの息子のウッドローが隣の祖父母の家に引き取られてきた。母親のラブそっくりの美しい顔立ちの12歳の少女ジプシーと、話し好きの12歳の従兄ウッドロー。父親を失った少女と母親を失った少年が、ともに互いの心の傷を知り、そこから成長してゆく様を描く。

ここでは敢えて、“立ち直る”とか、“癒える”という言葉を使いません。二人が心に持っている傷は簡単に切り捨てたりできるものでもないし、もし癒えるというのなら、それは二人が過去の出来事と自分の心と本当に向き合うことでしか解決できない__そこから“成長する”という言葉が一番ふさわしいように感じるのです。

ジプシーは美しい髪と顔でみんなに愛されているけれど、そういう見た目だけしか見てもらえないことに傷つき、また、母親の望むいい子であり続けることが苦痛になっています。けれど、母親とは違い、器量よく生まれなかったベルおばさんがその事に傷ついた人生を知ると、ジプシーは迷います。自分の考えていた悩みはとても贅沢なことなのか?見た目は人生に大切であるのかないのか?
私も作中のジプシーを見て、正直最初は微妙、と思いました。見た目は関係ない、といえるのは自分が可愛く生まれて損なめになどあった事ないからだろうって。見た目は大事ではない、とその年で結論付けることこそ傲慢ではないの?と。けれど、見目良かった父があのような形で最後を迎えてしまったことを考えると、結局は見た目は関係ない、というより、見た目にこだわることは愚かしい、とジプシーの中で結論付けられたのではないかと思います。見た目にこだわりのあった父親は、結局ベルおばさんのことも不幸にしたし、その価値観は本人のことも幸せにはしなかったのですから。そんな父親を知った事で(父の死とまともに向き合うことで)、またたとえ美形でなくてもユーモアで人をじゅうぶんにひきつける才能のあるウッドローの生き方を知る事で、初めてジプシーの心も親の価値観から解放されて、自分らしい生き方へと向かう事になるのだろう、と思います。

一方のウッドローといえば、斜視であまり美人でなかった母親似の容姿、日本の男性がこれだと今の自分なら世をはかなんでしまうかもしれませんが、彼は持ち前のユーモアで常にクラスの人気者であり続けます。ただ、ウッドローのユーモアは、おそらく彼自身身に着けざるをえなくてつけたものだとも考えられ、ちょっと切ないなあと思う節もあります。ユーモアがなければやりきれない、とでもいうような。ただ、そんな彼の世界にも一つの終わりがやってきます。心のどこかでわかっていた事実。でも、それに向き合うことが怖くて、ユーモアと空想に隠してそらしていた事実。皮肉にも、その事実と向き合うことに向かわせたのは、母親であるベルおばさんが大好きだった、いっぺんの空想詩でした。
殻を捨てて歩き出す。母親失踪の事実を本当に認め、そして母の弱さを許したそのとき、ウッドローが一つ大きくなって歩き出す感じがいいです。

見た目が大事か、中身が大事か、これはネット上でもよく議論がかわされる永遠のテーマのようです。もてている人が必ずしも美人とは限らないし、人間見た目や第1印象が全てともいうし。そういう価値観のぶつかり合いの中で、このジプシーとウッドローのおじいちゃんのように“人は心の持ちようが一番大事”と胸を張って言える自分になれたらいい、と心から思います。現実には見た目で判断される事も多くて、辛くてつぶれてしまいそうになる事もたくさんあって、まだ私は中途半端なままかもしれないけれど、いつか、胸をはってそう言いたい。

以下、個人的好き部分↓
「「見た目というのはな、ジプシー、結局のところ、見た目にすぎん。その人の本当の姿じゃあない。わしは学校で教えていたころ、そのことに気がついたのさ。見た目が素晴らしい生徒がマムシのように性悪だったことも、反対にえらく不器量な生徒がまことにすばらしい人間だったこともあったからな。こういったからといって、美人や美男子がりっぱな人になれない、といってるわけじゃないぞ。見た目が美しくて、しかもりっぱな人もいる。おまえのママがいい例だ。また逆に、不器量な者に悪い人間はいないといっているわけでもない。不器量で、しかも悪人というのももちろんいる。ほんとにだいじなのは、その人の心なんだ」」

「この世には、見た目のかわいらしさよりずっとたいせつなことがいっぱいあるはずなのに。
 でも、ここではっと気がついた。平気でこんなことをいえるのは、いつもかわいいとほめられてる子だけなのかもしれない。現にベルおばさんにとっては、いちばんたいせつなのは外見の美しさだった。見た目の美しさはたいせつなんだろうか。たいせつじゃないんだろうか。考えれば考えるほど、わからなくなってきた。」


「夜明けに吹くそよ風は、きみに秘密を告げにやってくる
 もうまどろみにもどってはならぬ
 同じ追い求めるなら、みずからが真に欲するものを求めよ」
秋、読書三昧期間24
2009年 11月 17日 (火) 22:23 | 編集
ちょっと不思議で、でもとても重たい話。

『how I live now 私は生きている』メグ・ローゾフ・作 理論社

母親は自分を産んだ後に亡くなり、再婚した父によって、アメリカからイギリスの従兄弟一家のところへ預けられることとなった15歳の少女エリザベス(デイジー)。父の再婚の為に、どこか世間をハス目で見るようになってしまったデイジーを、不思議な魅力を持つ従兄弟達が温かく包むが、その最中“戦争”によって家族はバラバラになってしまう。従兄弟達の中でただ一人、心も体も重ねた3才年下の少年エドモンドに再び逢う為に、そしてもう一度家族になるために、末の従妹パイパーを連れデイジーは必死に生きようとするが、事態は悲しい結末を迎える。

かなり低年齢?の性行為を挟んだりしていますが、それでいてさらっと流されていて、何というか結構、こういうのは普通なのかな…..とか思ってみたりもします(悪い意味ではないのですが。)。時代設定は、携帯電話やeメールが出てくるあたり近未来だと思うのですが、敵の占領下になってしまったイギリスで、近未来少女のデイジー達は、まるで昔に戻ったかのようなサバイバルな生活を味わいます。その時に感じる、自分の無力さとやるせなさ。そして一筋の希望。その希望はまさしくエドモンドに会いたい、というデイジーの愛から湧き出るものですが、物質的に不自由のないニューヨークの生活の中では、決して心を満たされる事のなかったデイジーが、この嵐のような状況の中で、初めて人を愛する事の価値を知ってゆく、というのが、何かいいなあと思いました。人間行き着くところ最後はこれなのですかね。また、一口に愛と言っても、デイジーが知ったのは、単にエドモンドとの間の(男と女としての)愛だけではなく、末の従妹パイパーを慈しむ時の優しい愛(でもそれは純粋な心を持つパイパーだからこそ生まれた感情なのかもしれません)、口数は少なくてもそばにいて自分の事を良くわかってくれるアイザックへの信頼や安心感。たまたまエドモンドが大きくクローズアップされただけで、愛情の形はいろいろあると思いますし、そのどれもをデイジーが得ることができたのは良かった事だとも思います。
(正直、冒頭の方のちょっと荒んだ感じのデイジーは見ていてイタいとも感じました。そういう感情にならざるを得ない経緯は察するけど、甘えすぎの気もする)

ラストは結構重い終わり方なので、納得のいかない人も多いかもしれませんが、私はこれでよかったと思います。エドとデイジーが再会してハッピーエンドで終わりだなんて、このストーリーの中ではあまりに軽薄な感じだから。ただ1年でも、そこで体験した悲惨な経験が、死ぬまで大きな傷を残すこともある。ここから先、デイジーがエドをどうやって癒しまた支えてゆくか。彼の心とともにあり続けるか。15歳の衝動で芽生えた愛を、どうやって本物の愛となしてゆくのか、ここから先、デイジーがエドの中に自分の居場所を確立していけるのか。祈るような終わりでした。
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